塩竃の地理・歴史

塩竃の地理

塩竈市は宮城県のほぼ中央、仙台市と日本三景で知られる松島との中間に位置し、江戸時代には伊達藩の主要な港町として栄えた街です。その歴史ある港町への交通経路をご案内致します。

塩竃の歴史

鹽竈神社陸奥国国府が、仙台市太白区(郡山遺跡)から多賀城市に遷った頃、陸奥国府の外港として、塩竈市内に国府津(こうづ)がおかれた。香津(現在の香津地区にあたる)は内陸にあるが、古代には入り江が二つ、深く入り込み、南側の入り江に国府津があった。北側の入り江の北側に、海に面して鹽竈神社があった。
陸奥国府が多賀国府(たがのこう)として七北田川沿いの岩切に移転すると、河口港の湊浜が国府最寄りとなり、塩竈の外港としての意義は薄れたが、以後は鹽竈神社と港湾を中心にして、中世にも町として続いた。町の名は神社からとられて塩竈となった。
戦国時代には留守氏の勢力圏にあり、留守氏が鹽竈神社の神人組織を自らの家臣団にした。伊達氏から養子に入った留守政景の代になって、実質的に伊達氏の領国の中に取り込まれた。
戦国時代の末期、伊達政宗は東北地方(奥羽)の南半分を征服した。1590年に伊達政宗が豊臣秀吉に服属したとき、留守氏も政宗を通じて間接的に服したはずだったが、秀吉は留守政景を自分に帰参しない独立大名とみなして取り潰した。政宗が政景に磐井郡黄海に2万石を割いて家臣にしたとき、留守氏の家臣はこれに従って移り住んだ。塩釜港
1601年に伊達政宗が仙台城を居城となり、1871年の廃藩置県まで、現在の塩竈市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となった。
江戸時代に塩竈は、仙台市の外港として発展したが、塩竈から仙台まで舟入堀と舟曳堀が引かれて物資が塩竈港を素通りするようになり反映は影を潜めたが、伊達綱村は事態を憂えて、1685年に塩竈から課役を免除し、米以外の産物に塩竈への着岸を義務付けた。これによって町は活気を取り戻した。

「光源氏」の愛した地・塩釜

塩釜は、東北で最も長い歴史を積み重ねてきたまち、平安時代より、美しいものの代名詞・歌枕として多くの歌に詠まれている地です。源融(みなもとのとおる)は、「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルの一人といわれ、今から千年以上も前に、塩釜の融ケ岡に邸宅を建て、そこから見える千賀ノ浦(塩釜湾)の風光明媚な風景をこよなく愛したといわれています。平安ロマン漂う塩釜は、源融ゆかりの地でもあるのです。